御堂筋チャレンジって何だったの? ー 狙われる通行空間

先週、『御堂筋チャレンジ』という社会実験の現地を覗いてきました。

 去年整備された御堂筋の千日前通から南の自転車・歩行者空間(以下「モデル区間」)で行われていたものです。なお、これを書いている現時点では既に終了しています。 

 

 

『御堂筋チャレンジ』って、聞いただけでは何のことだかわからない、とりあえず前向きで元気そうなイメージがアピールされる、コピー的なネーミングです。内容は、告知のチラシによると、

  

「みんなが楽しめる上質なにぎわいづくりにチャレンジ!」
「歩行者・自転車に優しいストリートにチャレンジ!」

 

とあり、

チラシ(裏面)  
チラシ(裏面)  

前者では

  1. カフェ
  2. マーケット
  3. ストリートライブ

後者では

  1. 歩車分離化
  2. ストリートの滞在空間化
  3. シェアサイクル

を実施とあります。  


『御堂筋千日前通以南モデル区間における「可視化社会実験」』というのが正式の名称のよう。

 http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000414252.html


 

  筆者が訪れたのは平日の昼前で、マーケットやライブの様子は見られなかったのですが、メインの関心は何といっても上記項目のうちの「歩車分離化」にありました。それは具体的には、自転車走路幅員の狭小化なのです。以下は現地の見聞をベースにしたインプレと懸念表明のエントリーです。

3m幅員の走路上の歩道・広場寄りにベンチとプランターが設置。
3m幅員の走路上の歩道・広場寄りにベンチとプランターが設置。
早めに到来した寒波のせいか、いつも以上に控えめな自転車・歩行者数だったかもしれません。
早めに到来した寒波のせいか、いつも以上に控えめな自転車・歩行者数だったかもしれません。
そのためか、ヒヤリ・ハット的な危険場面はほとんど目にすることはありませんでした。
そのためか、ヒヤリ・ハット的な危険場面はほとんど目にすることはありませんでした。
歩道・広場の仮設のテーブルと椅子は毎日出し入れしていたらしい。自転車の通行によると見られる損傷などは(伺った時点では)ないとのこと。
歩道・広場の仮設のテーブルと椅子は毎日出し入れしていたらしい。自転車の通行によると見られる損傷などは(伺った時点では)ないとのこと。

 

 ベンチ・プランターの設置幅は概ね90cmほど。自転車道の元の幅員が3m(街渠を含む)ですから、狭小化後の走路の幅員は2mと少しに。

 

この幅員設定は、道路構造令の規定(※)を踏まえてのものかと思われます。しかし、設置されたファニチャー(ベンチ、プランターなど)は、一般の縁石をはるかに上回る高さがあります。自転車は接触を回避するために幅員をいっぱいには使わなくなるので、実質的な幅員減は1mを上回るのでは。 


※「自転車道の幅員は、二メートル以上とするものとする。」第十条の3


自転車道を通る利用者と、逸脱して歩道部を走る利用者(写真は南向)
自転車道を通る利用者と、逸脱して歩道部を走る利用者(写真は南向)

 

 通行密度が高くなったがために、後続の自転車が歩道へ溢れてしまった?

 

「モデル区間」の走路遵守率が高いか低いか、筆者は実験以前の様子ではまずまずの遵守度ではないかと見ているのですが、どうでしょうか。

 

筆者がたまたま行った今年5月の調べでは、走路の遵守度は75%(南行)。ただしそれは南端部での数字で、上の写真の数十m先に左への屈曲がはじまる個所があって、その辺りで走路を離脱する例が変わらず多く見られました。筆者の調べが一応の信頼度があって、遵守率の変動も無視できるとするなら、写真の箇所は75%以上の遵守率が想定される所です。

 

 もしかするとこの社会実験による狭小化で影響が出ていないと考えられなくもない光景ではありますが、今回、計測の余裕はなく、これ以上のことは何とも言いようはありません(走行がまばらだったので、インプレレベルとしても評価するのは難しい)。

 

緩衝・植樹部のギリギリ(縁石端のほぼ真上)まで使って設置されているシェアサイクル。
緩衝・植樹部のギリギリ(縁石端のほぼ真上)まで使って設置されているシェアサイクル。

 

  なお、この社会実験についての電話問合せに応じてくれた事務局の方は、自転車道の幅員の評価が、目的の一つとしてあるということを認められました(つまり、歩行・広場空間の拡張のためにやむを得ず自転車道を狭めたのではないということ)。

 

では幅員の妥当性を評価したいのであれば、「例えば狭小化の幅を変えて影響の度合いを確かめてみる、といったやり方はとらないのか」と伺ったところ、今回そのような考えはない、とのこと。

 

利用者数の多い都心部の貴重な専用路に3mの幅員が確保されたのは英断であり、この幅員あってこそ、この自転車道は一定の機能を果たしている旨を伝えさせていただいて電話は切らせていただいたのでした。

 

 

なお、効果把握として、何らかの定数的調査と、週末などに利用者アンケートを実施。結果の取り扱いについては現時点では未定とのことでした。

 


 他の日に予定がつかず、カフェやマーケットの影響が見れなかったのが残念なのですが、さて、この実験が目的とするにぎわい創出に、自転車道の狭小化は必要なことだったのでしょうか。

 

日本の自転車道には幅員を惜しんで失敗する例がよくあります。とくに「モデル区間」のような利用の多い所では、単純に上下1列の走行を基にした(と思われる)道路構造令の基準では足りず、速度の違う利用者が先行の自転車を余裕を持って追い越しできるプラス分の幅員が欠かせません。

 

 下は大阪近辺の自転車道の例です。どちらも2m3~40cmほどの幅員があって、高く安定した利用が見られます。 

みなと通(大阪市港区)
みなと通(大阪市港区)
近松通(尼崎市)
近松通(尼崎市)

 

 ちなみに、「モデル区間」の自転車通行量については、さきにも示した筆者による5月の調べ(平日夕方計6分、ごく発作的な計測です)を基にすると、時間あたりで300を優に上回る台数になります。これは例えば、オランダの基準では3.5m以上の幅員が求められる通行量です(双方向自転車道)。3mの幅員(街渠を含まない、正味のフラット幅は2.5m)は、「モデル区間」の自転車道が機能するために決して過大なものではないのですが、それをわざわざ狭小化するとはどういうことなのでしょうか。 

 

 走路が狭小化されたために、走路を逸脱した自転車が歩道部へ溢れ、せっかく進められた歩行者との分離が逆戻りするのだとしたら、何のために社会実験をやるのか訳が分かりません。自転車と歩行者の分離共存が図られてこそ「上質なにぎわい空間」は進展するのであろうに、これでは「せっかく専用道まで設けてやったのに、相変わらず自転車利用者のマナーはひどいものだ」といった不当な非難を招く様が浮かぶようでなりません。

 

ここで気になる点の一つは、チラシにある「歩車分離化」の説明です。

 

チラシ裏面より拡大
チラシ裏面より拡大

 

 分離は昨年の整備ですでに実現しているのです。このうえなお「分離化」を求めるのには、現状の自転車道を本格的に構造分離(歩行者との間を)したい要求が伺えるでしょうか。ここにもう一つの図を掲げておきます。 

 

 

 これは「御堂筋・長堀21世紀の会」という団体が掲げる御堂筋の構想の一部です。今回の社会実験が行われた「モデル区間」よりもう少し北のエリアの企業を中心にした街づくり団体です。この図の、側道付近を更に拡大してみます。 

 

 

 側道部分の車道からの転換について、ここでは自転車道に2mの幅員が示されています。そして、自転車道と歩道(テラス)の間には、植栽とみられる分離構造物が見られます。自転車道を、構造令の規定幅に狭めて、そのぶん歩行・テラス部分の最大化をはかる案です。

 

 大阪市のハレの顔を象徴する御堂筋には、様々な団体・機関からの思惑が集まります。上の団体も、その中の一つで、この社会実験の主体団体である「御堂筋慣性80周年記念事業推進委員会」の名簿にも名前が見えます。

 

現在は御堂筋のごく南端部に過ぎない「モデル区間」の整備を、今後北へ進めてゆくにあたって、現在のような自転車への「潤沢な」幅員配分を延伸部には適用させないようにするための下ならしなのではないか、と言ったら、うがった見方でしょうか。

 

 

 自転車の専用通行空間としては、歩行空間との区分は控えめかもしれないですが、明確な色分けをしてしまえば、「モデル区間」の空間の連続性を阻害してしまいますし、増してや植栽などの構造物を設けてはせっかくの広場的空間を台無しにしてしまうでしょう。

 

その設計の経緯など知る由もないですが、単にデザイン的な洗練だけでなく、自転車通行部分と、歩行・広場部分とのメリハリの付け方について、どこまで空間の一体感を損なわない淡泊なデザインが許されるか(利用者に認知されるか)、その限界をよく探っているのではないかと、またその通行空間を、利用者も自転車の通行空間としてよく認識していると筆者は評価したいのですが、社会実験の推進側とは認識が違うようです。

 

けれども、自転車利用に特段のバイアスのない団体が、歩行者空間の最大化をはかる、そういう絵を描くこと自体は、べつに不自然なことでも何でもない。

 

問題は、自転車利用者の側に、問題を捉える動きが希薄なこと。まだまだ脆弱とはいえ自転車の市民団体に、課題を捉えて利用者の立場を守ろうというアドボカシーの姿勢がほとんど見受けられないことでしょうか。