7月某日、ふと思い立って枚方方面へ走りに出た。まったく発作的に、とある団地の停止線が気になったのだ。だら汗覚悟だったけれどもまずまず快適に走りとおせた。暑いとはいっても顔を撫でる風にはまだ涼しげがあってペダルの踏み甲斐があった。苦行でなくサイクリングに出られる最後のタイミングだったかもしれない。
目指したのは、枚方にある香里団地という少し大きな団地。この団地の目抜き通りに、他ではなかなか見かけない貴重な"ライン"があるはずなのだ。それが健在かどうかが気になりだして、矢も盾もたまらなくなってしまったのだ。
団地なるものも今や『昭和』を語る歴史の遺物だろうか。やがて規格が確立して量産されるなかで多分に惰性化した多くの団地と違って、古い団地にはいつ訪れても受ける何か清々しい印象がある。それは単に立派に繁った木々の青さのせいなのか、或いは戦後復興期の夢が放つ清新な魅力というものだ
ろうか。とりわけここ香里団地は、設計からおよそ60年を迎えるというその歴史と、当時は全国最大級だったというその規模など、戦後関西のまちづくりを語るのに欠かせない物件のはずだ。
はたして線は健在だった。
かなり擦れが進んでいるのが気になったものの、車道を走る自転車の姿もちらほらと見かけることができて、これまで見てきたのと変わらない様子を確かめることができた。個人的には、自転車の通行空間は、極力単純であってほしいと望んでいる。ここはそのほぼ理想的な形を見せてくれるきわめて貴重な実例である。
余裕のある路肩が続いて、クルマより数10センチ前出しした停止線が引かれ、自転車が通ることを示すサインがさり気なく表示される。あとあればいいと思うのは交差点のなかを誘導するサイン(矢羽根など)くらいで、ハードはこのくらいで十分なのである(そこから先は自転車ユーザーへのルール周知とか、ドライバーとの信頼関係づくりといったソフト面が肝要になるのだけれども、主題が散漫になるので今回は触れずにおきたい)。
この数年、国だけでなく自治体にも理解のある方たちが現れてきて、整備の為の ガイドラインも策定されたおかげで、自転車レーンや専用道といった自転車用の 走行路が以前に較べれば格段のペースで整備されるようになってきたけれども、 実際に出来上がる自転車道や自転車レーンというのは、ここで見られるシンプル なのとはまるで真逆なのが現実。
もっとも、この道(けやき通り)がかなり恵まれた条件にあるのも確かだろう。一般にはこれだけの路肩幅員があって、通行量もさほど激しくない場合には、たちまち荷降ろしや休息にクルマが寄って来てしまうのだけれども、この道は沿道がほぼ完全な住宅地で、なおかつ幹線路には建物が直接面しないように設計されているから、路上駐車はかなり発生しにくくなっている(より東の商業地区では普通に路駐は見られる)。
また車線数もシンプルな対向2車線で、団地内では大きな幹線路との交差もないから、ごく単純な形式をとることができるし、団地の周りもずっと住宅地が取り巻いているせいか、国道1号や第二京阪からショートカットで流れ込む大型車両もほとんどないので、車道に慣れない自転車ユーザーを恐れさせる威圧感や風圧をもたらす大型車両がほとんど通らない道になっている。
ところで、同じ箇所を5年前に撮った写真と較べていて、車道外側線(車道と路 肩を画する線)の様子が違っているのに気がついた。線は少なくとも一度は塗り替えられたようで、その際にかつての点線が実線に塗り換えられていたのだった。 点線から実線へとは意味のある変化なのだろうか。単に発注者なり施工業者の恣 意的な裁量の範囲なのか、それとも車道と歩道との間の緩衝スペースという位置 づけから、より軽車両を意識した、つまり自転車の通行空間としての認識が進ん だことの表れと見られる変化なのか。
かつてこの近くの交番で、この停止線について尋ねてみたことがあって、「転勤してきているので以前のことは知らないが」「('80年代頃に盛んに整備された)単車用に設けた停止線の名残と違うだろうか」という返事をもらったのだけれども、 私は違うような気がしている。実はこの停止線、千里ニュータウンにもある(左写真、ただしこちらは自転車サインは付かず停止線の前出しのみ)。たった2例で関係付けるのは性急すぎるのは先刻承知だけれども、団地でつながるのは単なる偶然に過ぎないのだろうか。
関係者のなかに確信犯的な担当者がおられるのではないかという空想を、私は捨てられない。その方を仮に「X氏」とする。氏は現行の枠組みの中で最大限に自転車フレンドリーな道路整備を手がけるお方だ。X氏は現今の自転車走行空間の在りようをどのように見ておられるだろうか。少なくとも香里団地のけやき通りは、今のまま守っていてほしいと願う。
-追記
枚方と周辺の丘陵地帯には、かつて大規模な軍関係の施設が点在していました。 本編で訪ねた香里団地の敷地もかつては「陸軍香里製造所」という火薬工場だった所。敷地はそっくり団地の用地になったわけですが、戦後間もないころ朝鮮戦争の勃発を受けて、ここにあった火薬工場の再開を企てた業者があったそうです。 しかし再び戦争に加担する事業を許さないと、周辺住民の間に反対運動が起こって工場の再開は阻止されたということです。 香里団地がかつての軍用地だったのは知っていたものの、戦後のこのような経緯までは知らず、さらにこうした軍需施設のあったことを伝える遺物として、団地のはずれの丘にあった工場の一部(煙突:写真)が遺されていることも今回初めて知った次第。今般の政治状況と照らしてみるに、何だか胸に迫るものを覚えず にいられませんでした。 自転車とは直接関係のないことでたいへん恐縮ですが、ついては当ブログを訪れてくださった誠に奇特な皆様には、この旨併せてお知りおきいただけたらと付記させていただきました。ここまで読んでくださいましてたいへん有難うございます。
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